• HOME
  • COLUMN
  • カミングアウトされたノンケ男のコラム 「私はゲイを理解できない」

カミングアウトされたノンケ男のコラム 「私はゲイを理解できない」

  • advertisement

ゲイのウェブマガジンを運営していて、ゲイとばかり交流をしていると、世界はこのコミュニティだけのような気がしてしまう。

それだけでも鬱陶しいのだけれど、世の中にはゲイの他に様々な人間がいる。

しかし、自分のことに手一杯になると、その人たちのことをうっかりと忘れてしまうことがあるのだ。

幼馴染をはじめとした親しい旧友たちには、自分がゲイであることはカミングアウト済みで、カミングアウト後も変わりなく暮らしている。つもりだった。

大学時代の親友で、物書きをしている男友達といつものように飲んだくれていた時のこと、自分がカミングアウトした時なにを思ったかふと聞いてみた。(彼はカミングアウトをした一番初めの友人だった)それは思ってもない答えで、思わず「え?」と驚いてしまった。

その時初めて、カミングアウト”された”側のことを考えた。そして軽率にカミングアウトをしてきた数々の場面を反省し、これまで通りの生活が続けられていたのは、友人たちがそれぞれの価値観をアップデートしてくれたお陰だと深く感謝をした。

カミングアウトされた側の話はあまり聞く機会がないと思い、今回彼にコラムの執筆をお願いする経緯に至った。最後までお付き合いいただき、「ゲイじゃない人たち」のことを考えるきっかけになってくれればいいと思う。

私はゲイを理解できない

友人からカミングアウトされたときのことをコラムにして欲しいと頼まれたのだが、ヘテロ男性である私がゲイについて訳知り顔で書くのはどうにも筋違いのような気がして難しい。しかし、せっかくの友人からの依頼だ。悪戦苦闘しながらでも臨むほかなく、そのなかで自分の過去の感情や行動について、できるだけ嘘偽りなく書くことを心掛けた。保険をかけるようで恐縮なのだが、読まれた皆さまにとって不快な表現があったとしてもご容赦いただきたい。

「その好きな人って男なんだよね」

大学時代からの男友達のいつもの恋愛相談。私は電話越しに伝えられた事実に、冷たい手で急に心臓を撫でられるような拒否感に似た動揺を覚えてしまった。とっさに間を空けてはいけないと思ったのか、「へえ、いいじゃん」とか、肯定的な態度を取り繕った気がする。でも動揺しているという事実それ自体が友人に対する酷い裏切りに感じたし、自分の中にこんな差別意識があったということを自覚して驚いた。

「私も、男のこと好きかもしれないとか思ったことあるよ」

今考えれば訳の分からない返しだが、当時の私はヘテロセクシャルという男性は女性が好きで女性は男性が好きという考えが常識の根っこにあって、きっと励まそうとしたんだと思う。そもそもゲイであることを励まそうとすること自体が酷く失礼なのだが。私は男性で女性が好きだし、ゲイに対して普通とは違うと漠然と考えてしまっていたのだろう。

誰かを声高に差別することはしないが、自分のことを決してリベラルだとは思ってなかったし、どちらかと言えば保守的な考えの人間だとは自覚していた。でも、友人のカミングアウトはそういうイデオロギーを超えて、大げさに言えば自分のこれまでの常識を脅かしてくるような気持ちにさせた。女性が好きというノンケ男同士の共通意識を失ったことで、彼との友人関係が自分の理解のおよばない別の何かへ変質したようにさえ思った。友人からの電話を切った後、そんなことを考えながら家の近所を当てもなく歩き回る。今までの常識では理解できないカミングアウトに途方に暮れた。それでも彼と距離を置くという選択肢は決して頭に浮かばなかった。彼は間違いなく私の親友だった。

誰に相談することもできないので、私はツイッターで匿名のアカウントを作り、セクシャルマイノリティの人たちをフォローしていった。何か少しでも彼を理解するための手がかりがほしかった。ゲイ、レズビアン、トランスジェンダー、アセクシャル、ヘテロセクシャルなど、一言でセクシャルマイノリティと言ってもその中にはさまざまセクシャリティがあることを知った。しかし、単語の意味を調べても、多くの人の意見を読んでも、友人が自分と別の種類の人間に思えてしまうばかりでどうしても理解することができない。

外国の知らない言葉で書かれた小説を無理矢理に読んでいるようだった。動揺を抱えながらも友人とは相変わらず頻繁に電話したり飲んだりしていた。それまで通りに自然に振る舞っていたつもりだが、そのときの彼がもし私の動揺に気付いていたなら申し訳なかったと思う。

それからは彼に連れられて2丁目に飲みに行くようにもなり、行きつけという音楽好きのママがやっている店を紹介してもらった。私は恥ずかしながら初めて来店した日に飲み過ぎて潰れてしまった。連れて行ってもらったのに申し訳なく、羊羹を持って後日ママに謝りに行ったことを思い出す。しかし、ママとしては店でお客さんが潰れてしまうなど日常茶飯事でなんとも思っておらず、塞翁が馬とでもいうべきか、その日に音楽の趣味がママと合うことが分かり、それからすっかり意気投合した。3年近く経つが今でも毎週のようにお世話になっている。

この店ではいろいろな人に会い、いろいろなことを話す。仕事の愚痴、最近行ったライブのこと、気に入っているアーティストについてなど。会話を重ねるにつれ、飲み友達のようになり、ゲイといったセクシャリティを良くも悪くもあまり気にしなくっていった。思い違いでなければ、ゲイの人も私をノンケだからという意味で、あまり意識していないように感じた。もちろん恋愛の話になれば男性が好きか、女性が好きかで食い違うのだが、別にだからといって話ができないということはない。振り返れば、これまでの自分はゲイというだけで、何か気を遣わなければいけないとでも思い込んでいたのかもしれない。もちろん失礼なことは言ってはいけないし、避けるべき話題もあるかもしれない。しかし、それはゲイバー以外でもなんら変わりないことだ。

決定的なきっかけがあった訳ではなかった。私はいまだにゲイを理解できない。男性が好きということは分かるけど、私は女性が好きだし、きっと彼のセクシャリティを事実じゃなく感覚として理解することはこの先もできないだろう。でも、彼は今でもかけがえのない親友だ。

結局他人は理解できないとか達観ぶりたくはないが、理解できなくてもきっと問題ないというのが私の今のところの結論になっている。「人は人」としか説明できない。セクシャリティについての配慮は必要なのかもしれないけど、「彼は彼」だし「友人は友人」だ。カミングアウトのときに感じた拒否感に似た動揺は自分も気付かないうちに消えていた。それは私の常識が「人は人」という場所に着地したからじゃないだろうか。自分の中で勝手にいろいろ悩んだこともあったが、これからも彼とは末永く親友でいたいと思う。

丸屋トンボ

あわせて読みたい記事